尾関諒の絵画に、派手なスペクタクルはおろか、メッセージや自己省察的な物語性は見当たらない。しかし朧気に素っ気なく描かれた図像(モティーフ)の合間に広がる細部にひとたび目をやると、微細な色の粒子がオブジェクトとなって独特な質感の肌理を形成し、画面全体に豊かな抑揚をもたらしていると分かる。ストロークではなく、筆を転がす。油絵具の色の粒子にまた別の色の粒子を纏わせる技法を、慎重かつ愚直に進めることによって、潜在的な図であった地の前景化がなされるのだが、ここで立ち現れるのは東洋の思想と絵画が脈々と扱ってきた「空(くう)」と、そこに満ちる気配=アンビエントである。そして再び図像(モティーフ)について述べれば、それは気配を引き寄せる宿主、あるいは行間に召喚されたセンテンスのような役割とも言えようか。つまり、尾関が時折口にする「地のような図」と「図のような地」の意味するところとは、アンビエントを前景化した地と、朧気で素っ気ない図像は、距離や角度で互いの役割を入れ替え観る者を揺さぶる、それぞれがアクターであるということだろう。そして、制作過程で生じる偶発的な間合いのズレや、手順の不整合もほどよく引き連れつつ、その絵画は「ポエジー*」が沸き立つ時を静かに待っている。
……私の言うポエジーとは何らかしらの情緒であったり詩想を意味するのではなく、ふとした瞬間に生活の中にも感じられる何かなのだと思う。例えば、毎日通る道に昨日までなかったアサガオの花を見たとき、何故か風が通り抜ける音が耳につくとき、友人の突拍子もない言い間違いを聞いたときなどにそれぞれの質感を伴ったポエジーが沸き立つ。そうしていつもと違う位相に一瞬迷い込んだような気持ちになる。そのポエジーとはかつて光の媒質として世界を満たしているとその存在を信じられていた架空の物質エーテルのようで、裸形の風景というのか日常の断面というのか、そんなようなものを顔に当たったそよ風のように一瞬知覚するための、世界と観者の間にある媒質としてのポエジーである。絵画が発生させうるポエジーとは、リンゴの絵ならリンゴのポエジーというわけではなくただその絵特有のポエジーとしてどこだかわからない抽象的な世界と繋がっている。世界の似姿としてではなく、その絵特有のポエジーが独立してある状態、それは一編の詩のようであって、一筆一筆が制作におけるその瞬間の間違いも含め、その間違いも後々決められていたように回収されるとして、上手く関係しあえば世界のこと、絵画のこと、その間に広がる領域のことをその絵特有の方法で現す。……
*2020年の個展「海、メガネなど」のための尾関諒によるステートメントより抜粋
尾関諒|Ryo OZEKI
1986年愛知県生まれ。2011年東京芸術大学大学院油画科卒業。2011–13年ドイツ・カールスルーエ造形美術大学在籍。ベルリンでの活動期間を経て2016年帰国後国内で活動。主な展覧会として、個展:2020年「海、メガネなど」スプラウト・キュレーション(東京)、2015年「Ryo Ozeki, Paintings」Herrenhaus Edenkoben(ドイツ)、グループ展:2022年「VOCA 2022」上野の森美術館(東京)、2021年「The Shark」ドイツ文化会館(東京)、2019年「KRONO.PLY」mumei(東京)、2018年「JPN_3」スプラウト・キュレーション(東京)、「In Hf」ドイツ文化会館(東京)など。