IMG/3組のアーティストによる映像作品展

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展覧会タイトル:IMG/3組のアーティストによる映像作品展

出品作家:荒木悠、高嶋晋一+中川周、迫鉄平

会期:2019年9月21日(土)~10月20日(日)

 

現在を寝返る——「IMG」展評 

福尾 匠

 

 現代の映像環境が語られるときに必ずと言っていいほど持ち出されるのが「マルチ・ウィンドウ」だ。レフ・マノヴィッチもアン・フリードバーグもエリー・デューリングも、映画等の芸術作品におけるマルチ・スクリーンや分割スクリーンをGUIにおけるウィンドウの同時展開に対応させてその現代性を考察している[1]。たしかにわれわれは無数の画面、画面のなかの画面に囲まれている。イメージの奔流に打ち付けられたわれわれの身体は広告やゲームやポルノに押し流されてしまったのだろうか。部分的にはそうだろう。そうなってしまうことに対するあからさまな抵抗もあるだろう。身体性の恢復を説いたり、作品の権威を復活させることでひとつのイメージ経験への没入の意義を説いたりすることによって。しかしこれらは結局のところ、外で遊べ、あるいはちゃんと美術館や映画館に行け、という、いずれもひどく道徳主義的な意見でしかない。

 30インチほどのふたつのディスプレイを縦に架けて並べた迫鉄平の《P(rivate) P(ress)》は、われわれを画面の回廊と、あるかないかわからないその出口への奔走のあいだに置き去りにする。両画面には、同一の場面が微妙なアングルのズレをともなって映されている。横断歩道の往来、空気で膨らんだ巨大なピカチュウのオブジェの前で自撮りするカップル、タイのどこかの街の軒先で将棋のようなゲームに興じるおじいさん、地味な噴水、選択される風景に際立った特徴や出来事がないのはこれまでの迫の作品と変わらない。しかしこれまではiPhoneを横に構え、スナップショット的なだらしない風景をとりとめもなく引き延ばす映像作品を制作してきた彼は、本作では両手に持ったふたつのiPhoneを縦に構えているようだ[2]

 ふたつの映像は完全に同期しているわけではない。場面によっては数秒のズレが埋め込まれているが、おそらくそのことに即座に気づくのはきわめて困難で、正面性の高いショットで同じ人物が撮影されているときですら同時性の誤認は起こる。見えているものの大半は記憶に基づいた投影によるものでありリアルタイムの知覚情報はそのごく一部を占めるに過ぎず、一方の画面を見るとき他方の画面は自身の記憶によってマスキングされるからだろう。

 興味深いのは、本作を見ていてもっとも強く二画面の同時性を感覚する——それが誤りであれ——のは人物なり車なりの対象が一方の画面を横切り、同じ運動方向で他方の画面にフレームインする瞬間だということだ。先に述べたように同一の対象が両画面に映っているときの同時性の感覚は非常にあいまいで不確かであるのに対して、ひとつの対象がふたつの画面をまたぐ運動に連続性がある——カーソルがディスプレイをまたぐように——ときには注視する対象はひとつでよく、そうした同時性の確信には不思議と快感とさえ言えるような喜びがともなう。

 しかしその喜びも解体される。ある場面で、右画面を左方向にフレームアウトした人物が両画面の死角を挟んで左画面に現れる。すると今度はとつぜん、右画面を右方向に通過する人物が現れ、数秒の後に左画面を同じ人物が右方向に通過する。左に対して右の画面のほうが数秒前の映像だったのだ。場面の同時性は、まず二画面を同時に注視することができないという認知限界によって、そして死角の不確定性——フレームアウトのあとどのくらいの時間で他方に映り込むのが「自然」なのか、鑑賞者にはわからない——によって、でっち上げられると同時に解体されている。ふたつの画面に同じものが映っていても、ふたつの画面を同じものが横切っても、同時性を認識することはできない。空間的であり時間的でもある死角に引き込まれるように、鑑賞者は現在に見放されてしまう。

 

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 寝つきが悪くベッドでiPhoneを触る。眩しい。あきらめて電気を点けると一瞬画面が暗く感じるが、すぐに(ちょっと申し訳なさそうに)周囲に合わせた明るさに調節される。iPhoneのスクリーンは私の虹彩に同期することで自身が光源であることを隠す。これはインタラクティビティというよりその素地を用意する機能であり、私の意図ではなく不随意筋と強く関係している。この意識下のレベルでの同調がないならば、われわれはつねに環境に合わせて意図的に明るさを調節しなければならなくなり、iPhone自体は環境になり得なかっただろう。

 荒木悠の《The State of Light》は照明=環境になったときに作品になる。三角形に組まれ天井から吊るされた三つのディスプレイのまわりをぐるぐると回っているあいだは、そこに映っているのが電光掲示板をフォーカスを外して撮影したものであったり、その光が壁を照らしているところであったりすることがかろうじてわかるだけだ。それ以上のものを読み取るのは難しく、同じ映像がそれぞれの画面でズレをともなってループするところを鑑賞者は蛾のようにぐるぐるとたかっている。

 寝つきが悪くiPhoneを触り、あきらめて電気を点ける、ように、若干の煮え切らなさとともに奥に設置された高嶋晋一+中川周の作品を見るためのベンチに腰かけてふと振り返ると、三つのディスプレイの発する光が暗いギャラリーの隅に投げかけられている。iPhoneの眩しさ/暗さの意識化が展示の順路に組み込まれているかのように作品が光源でもあることが気づかれる。《The State of Light》はいちどわれわれが鑑賞から降りることで初めて鑑賞される[3]

 イメージを対象とする鑑賞ははぐらかされ、照明として眺められたときに作品の輪郭が定まる。作品/家具と鑑賞/なんとなく見ることの対応関係が一瞬交差し、きゅっと閉じた虹彩が安定するように、「作品として照明を鑑賞する」というモードがあてがわれる。テレビは離れて見てねという警告やブルーライトをカットする眼鏡がノイズとして排除する画面の発光が、この作品を俯瞰的に見た場合のモチーフである。しかし、LEDの電光掲示板の明滅、その周囲への反映、それらを映すLEDディスプレイの光、その周囲への反映という発光と反映の交代のなかで、鑑賞が弛緩しきったところで回帰するという過程の操作こそがこの作品の経験に即したモチーフだ。iPhoneの光が不器用に私の不随意筋に同期するように、本作は無意識化された文化的態度を明るみに出す。

 

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 高嶋晋一+中川周《Landed》。ギャラリー全体に響くガチャッ、ズズズズズッ、ガリッ、という硬い音を発しているのは再奥のこの作品だった。岩、石、砂、アスファルトの目立つ無人の風景を、画面が漂い、倒れ、落下している。日常的な身体の方向定位が解体されるとともに、地平が地平に見えなくなっていくということについては、これも浮遊し回転するカメラを用いたマイケル・スノウの《中央地帯》(1971)と共通している。しかし、上昇、下降、回転という幾何学的な運動とカメラを担っているはずのヘリコプターの存在を隠す電子音——飛行音は使用されていない——を使用するスノウと、揺らぎや振動に満ちた運動とカメラのリテラルな物体性を接触音によって誇張する高嶋+中川はほとんど対極に位置しているだろう。つまるところこの差異は前者がある種の無重力的視覚の実現にかかわり、後者はあくまでタイトル通り「接地」にかかわるということに起因すると考えられる。

 しかし映像の「接地感」とはどんなものだろう。ユーチューバーが動画の最後にカメラに向かって手を伸ばし、すこしの振動とともにブラックアウトするとき、その振動に、見ている私の身体とはまったく別個の物体性をカメラが持っていることを初めて意識させられ、すこし面食らう。これはメディウムの透明性による表象かメディウムそれ自体の特殊性の提示かという二項対立には収まらない、生物であれ物体であれもっている知覚の機序とそれらの干渉の問題だ。私の眼とカメラの同期はしばしば乱れることがある。《Landed》が取り組むのは私の眼のものでない接地感だ[4]

 ASMRというジャンルの映像が数年前からyoutubeを中心に世界的に流行している。マイクを撫でる、マイクの至近距離で囁き、咀嚼音を聴かせる、石鹸をナイフで刻む、スライムを揉むといった高性能マイクで収録されたフィジカルな音響を聴き続けることで、リラックスおよび安眠効果を得られるものだ。粒度の高い音声によって特定の触覚が喚起される。言わば共通感覚をくすぐるのがこのジャンルの特徴であり、その意味で2012年のリリース以来200万ダウンロードを記録している瞑想音声アプリ「寝たまんまヨガ 簡単瞑想」がつい最近「cocorus」へリニューアルしたのを機にASMRを新ジャンルとして導入したのは象徴的だ。マインドフルネス的な瞑想を誘うインストラクションは身体の弛緩を促したあとで上唇と下唇の接面、舌と上顎の接点、上瞼と下瞼の接線、背中とベッドの接面へと順に意識を向けるよう指示する。中村雄二郎は共通感覚の根に体性感覚(体の姿勢、重力、緊張/弛緩の感覚)があると指摘したが、ASMRとマインドフルネスはまさに体性感覚への下降の線上に並んでいる[5]

 この下降とは言ってしまえば現存する身体への「満足」に至る過程であり、無意識的なもどかしさは均され身体は意識へと、意識は身体へと還元される。囁き声とそれによる吐息の触感の喚起や上唇と下唇の接触といった共通感覚の最小回路への引きこもりが、われわれの多動的な思いなしと寝返り——寝つきの悪さ——を鎮める。

 《Landed》のカメラの不可解な運動からその背後の機構を推し測るのはきわめて難しい。それに対して音声はきわめてフィジカルにその接地、離陸、跛行を伝えている。50インチほどのディスプレイに向かって座るわれわれの後方の天井にポータブルスピーカーが設置されており、身体なき浮遊、傾き、停止とそれに同期するフィジカルなガチャッ、ズズズズズッ、ガリッに鑑賞者は挟み込まれる。私のものではあり得ないASMRが私を満たす。無意識のざわめきでも、その意識−身体の最小回路への還元でもなく、私に還元され得ない何かのもどかしさを寝返る。

 

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 マルチ・ウィンドウ、iPhoneの明るさ自動調節機能、そしてASMRをそれぞれの作品にぶつけてみた。この三つを並べるだけで、環境と化したイメージの同時展開に圧殺された身体の恢復というストーリーが編めてしまう。これは現在を争う闘いであり、現在をわれわれの身体の側に取り戻す綱引きだ。しかしマインドフルネスが効果的な休息として用いられているようにそれは多動的な社会と共犯関係にあるだろう。日々の労働——ブラウザやSNSの閲覧でさえそうだ——で溜め込まれた無意識の垢が深い息とともに落とされ、意識の清潔が保たれる。

 三つの作品はそれぞれ、こうした現在をめぐる闘い、これがあなたの現在なのだという呼びかけ自体から身をかわす試みであるだろう。そしてそれはどの作品もインスタレーションとしての機能を備えているということと切り離せない。迫の作品でさえそうだ。時間のズレはもし二画面の音声をそれぞれスピーカーで発していたならたちどころに気づかれただろう。いずれかの画面の音声へのヘッドホンによる閉じ込めが時間的なパララックスへの宙吊りを可能にしており、その意味で本作は視聴覚インスタレーションだと言える。画面を横切る通行人が現在を剥ぎ取られていく手前で、ほかの鑑賞者が狭い廊下の床を這うケーブルを(ちょっと申し訳なさそうに)またぐ。

 脱同期されたダブルイメージの死角、鑑賞の不随意筋の自覚、そして人間的な眼のものでも単離されたカメラのものでもない体性感覚のくすぐりは、それぞれに鑑賞を意図する身体をはぐらかす。三組の作家による、それぞれディスプレイを二台、三台、一台用いた「IMG」というこのうえなく簡潔な展示。しかしそこではイメージへの収まりの悪さこそが問われており、現在からの寝返りにおいてしかなされない醒めた鑑賞と、持て余された四肢が回遊している。



[1] レフ・マノヴィッチ『ニューメディアの言語——デジタリ時代のアート、デザイン、映画』堀潤之訳、みすず書房、2013年(原書:2001年)、pp. 438-443。アン・フリードバーグ『ヴァーチャル・ウィンドウ——アルベルティからマイクロソフトまで』井原慶一郎・宗洋訳、産業国書、2012年(原書:2006年)、pp. 329-335Elie During, Faux raccords : la coexistence des image, Actes Sud, 2010, pp. 167-175.

[2] 迫の映像作品については次の拙文でも論じた「画鋲を抜いて剥がれたらそれは写真」、ウェブ版美術手帖、2018(URLhttps://bijutsutecho.com/magazine/review/16887)

[3] インスタレーションにおける鑑賞と非鑑賞の往復については次の拙文でも論じた「鑑賞の氷点と融点——Surfin' 展評」、Surfin' アーカイブページ、2017年(URLhttp://surfin.host/review_fukuo.html)。

[4] 映像と身体と土地の関係と、このアレンジメントに特有の映像のありかたについては次の拙文で論じた「映像を歩かせる——『土瀝青asphalt』および「揺動メディア論」論」『アーギュメンツ#22017年、p. 28-37

[5] 中村雄二郎『共通感覚論』、岩波現代文庫、2000年。

 

福尾匠(ふくお・たくみ)1992 年生まれ。横浜国立大学博士後期課程、日本学術振興会特別研究員(DC1)。現代フランス哲学、芸術学、映像論。2018 年フィルムアート社より初の著作『眼がスクリーンになるとき——ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』』を上梓。

 

 

荒木悠 | Yu ARAKI

1985年山形市生まれ。東京都在住。2010年東京芸術大学大学院映像研究科メディア映像専攻修士課程修了。近年は、文化圏や時代の隔たりによって生じる誤訳や差異または類似に着目した事象を再構成し、語り直す方法を模索している。

 

迫鉄平|Teppei SAKO

1988年大阪府生まれ。2014年京都精華大学大学院芸術研究科前期博士課程修了。京都精華大学大学院芸術研究科後期博士課程満期退学。瞬間を切り撮るスナップ写真の技法を応用した動画作品や、複数の瞬間を一枚の写真に畳み込むスナップ写真のシリーズにおいて、「決定的瞬間」から被写体と鑑賞者を解放することを試みている。

 

高嶋晋一+中川周|Shinichi TAKASHIMA + Shu NAKAGAWAパフォーマンス作品などを手がけ執筆活動も行う美術作家の高嶋(1978年東京都生まれ)と、博物資料やプロダクツの撮影に携わる写真家・映像作家の中川(1980年高知県生まれ)によるユニット。2014年から共同で映像制作を開始し、それ自体は画面内に見えるものではないカメラの運動性を基軸とした作品を発表する。運動視差を利用した測量にも似た手法で、人間不在の世界を描く。